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終活に「何歳から」はない・エンディングノートはいつでも書ける

心と体と美しさ
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終活という言葉もすっかり定着してきた近年ですが、自分のことはまだ具体的に考えていない、という人の方が多いのではないかと思います。

私はアラフィフですが、同性代の友人にはこの手の話が好きではない人もいて、「まだ早い」と言われてしまいます。

しかし、私は、終活に「何歳から始めたらよい」というのはないと思っています。

エンディングノートなんて書き始めるのはいつからでもかまわないですし。

今回は、私が考える終活のお話です。

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終活は悲観的なものではない

終活というと、何だか生きることを諦めたような、悲観的なイメージを持ってしまう人もいるのではないでしょうか?

特に日本人の場合、あまり「死」のことは語りたがらない、口にしてはいけない、縁起が悪いというように捉えられ、何となく禁忌な話になってしまうことも多いように感じます。

でも、どんな人には必ずいつかは死が訪れます。

極端に言えば、人は生まれた時から少しずつ死に近づいているわけですので、死がゴールであるとも言えるわけです。

人生は、そこまでがセットになっていて、避けられることではありません。

いかに生きていかに死にゆくのか、考えることはおかしいことではないと思っています。

終活は、「死」に捉われるのではなく、いつか自分も死にゆく存在、限りある命であることを受け止めることと私は考えています。

終活は葬儀のことだけではない

終活と言えば、生前葬だとか、自分の葬儀に誰を呼ぶかとか、お墓はどうするとか、そういったことを決めることばかりがクローズアップされがちですが、セレモニーだけが大事なのではありません。

もちろん、そういったことも含めて、資産のプラスとマイナスの内容を把握し、管理や相続のこと、必要な書類の整理、所在を伝える手段やその手続き、身辺の品物の断捨離と整理などを行います。

また、自分の終末期医療に対し、どこで医療を受けるのか、延命治療に対する希望、介護に対する希望などの意思表示も残しておきます。

そして、これは私自身にも言い聞かせていることですが、一緒に暮らしているペットがいる場合、その子が残された時に飼育を誰に委ねるのか、飼育の上での注意して欲しいことや持病、かかりつけの病院なども伝えられるようにしておかなくてはなりません。

*参考記事

ねじねじも捨てた?中尾彬と池波志乃・おしどり夫婦の終活

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寿命はそれぞれ・終活は何歳からが良いのかは一律でない

私は看護師で、人の死に遭遇する場面は日常的にあり、人の寿命がどれほどあてにならないものなのかということを日々感じてきました。

決して投げやりな気持ちになったわけでも、世の中を儚んで言っているわけでもないです。

どんなに若くて健康そうな人も、一瞬の事故でその命は簡単に奪われてしまう。

死にたくて何回も自殺を試みてはその都度発見され、救急搬送され、毎回未遂で救われる人。

高齢の上、この人に健康な臓器はあるのかという状態でも、細々と命を繋いで生きる人。

若い母親で、まだ小さい子供を1人残し、無念な思いで亡くなった人もいる。

100歳に近い年齢で、何回も大病しては命を取り留め、「自分は戦争に行き同期の多くをそこで亡くして辛かった。自分はこの年まで生き、こんな体になっても死ねない。なぜなのか」と嘆いた人。

生きるとか死ぬとかを語ると重いと感じる方もいるかもしれませんが、現実です。

何が起こるかわからないのが人生で、終活も何歳からだとちょうどよいというものはないと思います。

終活を何歳から始めるべきなのか?は、終活しようと思い立った時からで良いのではないでしょうか。

終活には体力も必要

ただし、終活は体力も必要です。

終活という言葉は、何だか静かで厳かなイメージが付きまといますが、断捨離や書類整理、手続き関係などは、自分が動く必要があり、そして複雑なことをあれこれ考える必要があり、知力や体力が低下してくると負担が大きいと思います。

私の場合、年末の大掃除でも、「面倒くさい」「疲れる」「もう今度でいいや」とか思って、手を付けないことがたくさんあります。

えーっと・・・年末でなくても、そもそも普段の掃除でもそうやって後回しにしてしまっているかもです。

これが年をとって来ると、もっと体が動かなくなるでしょうし、考えるのも嫌かもしれません。

それに、自分の判断力がしっかりしているうちにしかできないことも多いですよね。

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エンディングノートは意外と難しい

私は、数年前、エンディングノートに取りかかったことがあります。

私の予想では、すぐに書きあがるはずだったのですが、真面目に書いていると、つい考えすぎてなかなか書けないこともありました。

これが私の全ての言葉になるのか・・・なんて、本当に考えすぎてしまうのでしょうね。

それで、私のエンディングノートはその時以来、中断したままなのです。

私の知人で60代の独身の女性の方ですが、エンディングノートを書きあげていて、いつも枕もとに置いて休まれるそうです。

寝たままで何事かが起こり、目覚めることなく亡くなった場合、エンディングノートがどこにあるのかを誰も発見してくれなかったら困るからとのことでした。

そうですよね。

単身で一人暮らしの場合、そういうことも考えておかなければなりませんね。

その人も一緒に暮らしているペットがいて、終活はそのペットの為でした。

エンディングノートをちゃんと書き上げたのに、大事にしまい込んでいて誰も気づいてくれなかったら何の意味もないですから、どこに置いておくかも大事かもしれないです。

もしかしたら、あまりに若い年齢からエンディングノートに向かい合うのは、難しいのではないかと言う気もします。

自分がいなくなった時のことをイメージしにくいかもしれないので。

でも、書いてみようと思ったら書いてみたら良いと思います。

何歳から書く、何歳からでないと書いてはいけないというものではないので。

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終活セレモニーの相談ができる窓口

互助会などに入会しておくと、いざという時のセレモニーに備えることができます。

自分の為というより残された家族の為かもしれません。

または、相談窓口を確保するという意味では便利かもしれません。

 

↓こちらは互助会の情報がわかる資料を請求できます。

ごじょクル 互助会資料請求プロモーション

 

近年は、葬儀の代わりに、会費制でおこなうお別れ会などもあります。

 

↓こちらは残された方々が開催するオーダーメイドのお別れ会で、なかなか素敵です。

生前に、このような形にして欲しいという希望を残しておくのもよいかもしれません。

会費制オーダーメイドのお別れの会偲ぶ会の相談「Story」

 

お墓についての考え方も様々。

私自身は、魂の抜けた自分の骨を残す意味はないと思っているので、できれば処分して欲しいわけです。

 

↓ということで、お墓に入るのではなく、散骨で自然の世界に返るというのも根強い人気です。

 

まとめ

終活は、死に向かう為の準備には違いないのですが、暗い話でも悲しい儀式でもないです。

身辺をすっきりと片付け、安心して気持ちよく生きるためのものです。

わざわざ終活という言葉にしたのは、いかにも日本人らしいかもしれません。

死は特別なことではなく、生きることの延長線上に必ずあるもの。

もちろん、その時にどう感じるかは、いざとならないとわからないかもしれませんが、いざとなるのは明日かもしれないし、何十年先かもしれない。

そして、エンディングノートは近日中に完成させなければと改めて思っています。

最後までお読みいただいてありがとうございました。

 

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