近年はDVという言葉が浸透してきましたが、私の時代にはそれを表現する言葉はありませんでした。
被害者の私は、相手の豹変ぶりにただ戸惑いながら、相手を決定的に嫌いにはなれないという不思議な感情で過ごしていました。
これはDV夫と離婚した私のとても個人的な体験談です。
でもどなたかの参考になればと思って書きます。
DVまでの経緯
私は、高卒で1年ほど仕事をし当時の交際相手と結婚しました。
まだ若いというより子供であり、若気の至りと言ってしまえばそうかもしれません。
私の家庭は何かと複雑でかねてから親との折り合いは悪く、家を出たい気持ちが強かったので、結婚はまさに「渡りに船」(後にカウンセラーからこのように表現され腑に落ちたのです)だったかもしれません。
元夫とは2年近く交際しましたが、その期間はただ優しい人としか思っていませんでした。
今になればそれは優しいのではなく、私に嫌われたくないので何でも私の言いなりになると言った方がよいでしょう。
私には高校卒業後に勉強したいことがありましたが、高校に行かせてもらっただけでもありがたいと思えという親でまともに聞いてくれるはずもなく、それがいさかいの一因にもなっていました。
そして元夫もまた「もう勉強などしなくていい。主婦になって家にいればよい」と言う人でした。
今思えば、私の話など聞いていないし私という個人を尊重していない、ただ独占欲を満たしたいだけの人だったのだと思います。
「給料日は決まっていない」を信じた私
結婚しても、生活をどのように切り盛りしていけばよいのかもよくわからないほど私は未熟でした。
元夫は私に「自分が固定の支払い(家賃や光熱費など)は管理するから何もしなくていい」と言いました。
それも私は優しさと受け止め、金銭管理を全て彼に任せました。
これが経済的DVの始まりとは思いもしませんでした。
そして、私にはその都度「買い物代」など2000円ほどをくれるのです。
まとまったお金をもらえることはなく、しかもいちいち目的を言わないと渡してはくれません。
給料の総額がどのくらいあるのかも知らず、どのような家計のスケジュールを立てればいいのかもさっぱりわかりません。
ある日、給料日はいつなのか尋ねたら「給料日は決まっていない。営業職なので分割でもらう」と答えました。(正社員なのに)
そしてあろうことか私はそれを疑いもせずに信じたのです。
《DVの種類》
- 身体的暴力
- 精神的暴力
- 性的暴力
- 経済的暴力
- 社会的暴力
ー経済的暴力とはー
- 生活費を渡さない
- 外で働くことを妨害する
- 洋服などを買わせない
- 家計を厳しく管理する
- 家庭の収入について何も教えない上に使わせない
- 妻の収入や貯金を勝手に使う
- 借金を負わせる
参考 ウィキペディア(Wikipedia) https://ja.wikipedia.org/wiki/
経済的DVを受け私は働こうとした
元夫はやがて私に渡すお金を渋るようになりました。
今はないから3日後とか来週と言って誤魔化すようになってきました。
そして3日後になったらまた誤魔化し、結局はなかなかもらえないのです。
私に手持ちのお金はなく買い物にさえ行けません。
ようやく1000円とか2000円とかもらっても、次はいつもらえるかわからないので残しておかなければ困るしとても不安でした。
なのでやっぱり自分がパートなどに出て働こうと考えました。
それを元夫に相談するとすかさず却下されました。
私には相変わらず「専業主婦で家にいるように」と言うのです。
手持ちのお金がないのでバスなどにも乗れず、友達と外で会うこともできませんでした。
一方、元夫は毎晩飲み歩きギャンブルにのめり込んでいたようです。
でも私はこの頃まだ信じていたので、そんなことは想像もせず、朝帰りしようが「仕事が遅くなり大変」という理由をそのまま信じていました。
借金地獄と身体的DV
冷蔵庫の中はいつもほぼ空っぽで、折り合いが悪かったはずの母からの食材の差し入れでやりくりしました。
母はすでにおかしいと思っていたようですが、私は元夫をかばっていました。
やがて電気やガスの支払いが滞ってライフラインが止められるという事態が起こるようになります。
家賃と光熱費は元夫に任せていたはずなのに。
当時は携帯電話のない時代で、固定電話がありましたがそれが一番に止められました。
家賃も実は何ヶ月も滞納していたことが後にわかりました。
元夫は「うっかり忘れていた。今日払う」などと嘘をついては家に帰らず、私は電気が点かない真っ暗な部屋で帰りを待ちました。
さすがにおかしいと疑問を持ち始めた私に、元夫も誤魔化しきれなくなったのか、ある日「実はこれだけ(闇金などに)借金がある」と打ち明けてきました。
当時、消費者金融の金利規制は緩くサラ金地獄で一家心中などが問題になっていた時代であり、自分もその崖っぷちにいることを知りショックでした。
借金してはギャンブルにつぎ込み、負けてまた借金し、金利が膨らみ借金する、という自転車操業の限界になっていました。
私が20歳になる日を待っていた夫
元夫がそんなことを急に私に打ち明けたのは、隠すのが辛くなったからかと思ったらもう一つ目的がありました。
私が20歳になるのを元夫は待っていたのでした。
「20歳になったら金が借りられる」
抵抗する私を殴って無理やり引きずって車に乗せ、私は消費者金融に連れて行かれました。
そして意味もわからず言われるままに借用書に記入させられ、そこの男性社員の私を哀れむような対応が忘れられません。
医師から問われた「ご主人を訴えますか?」に私は驚く
ある日、飲酒して泥酔の元夫にもういいかげんにしてと言ったら殴る蹴るのDVを受けました。
頭や顔を殴られて腫れあがり夜中に熱が出て、元夫は不安になったのか私を病院に連れて行きました。
DVのサイクルには、ハネムーン期と呼ばれるものがあります。
自分が傷めつけたのに急に優しくなって、泣いて謝ったりすがったりなどの行動が見られるのです。
そうやって優しくされた被害者は、自分を傷つけた相手に同情したり愛しく思ったりするのだそうです。
これこそが支配と服従で成り立つ共依存の関係です。
検査の結果、幸い骨折などはなかったのですが、写真を何枚も撮られ、元夫を追い出した診察室で医師と看護師に囲まれて聞かれました。
「ご主人を訴えますか?被害届を出しますか?」
私の状態を見てDVと気づき、配偶者を排除して被害者の私に意思確認をした医療スタッフは、本当に素晴らしい対応だったと思います。
しかし、その時の私は自分が被害者であるという自覚がなく、元夫を訴えるなんてとんでもないですと答えていました。
決別できるなら何もいらないという覚悟
顏の皮下出血も薄れ人前に出られるくらいになった頃、私は元夫に内緒で仕事を探し始めました。
私の両親には殴ったことを隠していてくれると思っていたようですが、会わないのは不自然であり腫れあがって痣になった顏を隠すことはできません。
結局、説明しないわけにはいかず、私の両親に元夫は土下座で謝りました。
そして私はその頃から次第に冷静になっていきました。
暴力をふるいながら私に吐いた言葉を私はしっかり覚えていました。
「お前は俺のもの。俺が死ねと言ったら死ね」
ようやく私は自分の理不尽な処遇に違和感を覚えたのです。
あんたに殺されてたまるもんかと私は咄嗟に思いました。
この男は私のことを大事に思っていない、つまらない男の身勝手以外の何でもないということがまるで霧が晴れるように見えたのです。
私は、手っ取り早く水商売の仕事を探しクラブで働き始めました。
そして自分に準備ができるまでは元夫の神経を逆撫でしないように、全ての反論を飲み込んでただなだめることだけに力を尽くしました。
「暮らしを立て直すのにお金が必要でしょう?私は一緒に頑張るから。あなたの為に」と言いながら、何も気づいていない演技をして優しく振舞いました。
下手に逆らって怪我でもさせられたら、仕事にも行けなくなりますので逃げるチャンスを失いますから。
元夫はいちいち嫉妬しくどくど文句を言い続けましたが、そのくせ私が働いて持ち帰った初めての給料は元夫が全部私から奪い取りました。
私は、自分の仕事を持つことに成功し自信が持てるようになりました。
私は大丈夫だ。離婚しよう。
慰謝料は無理どころか私名義になった借金まであるわけです。
それでももう何もいらない、すっぱりこの男と離れることが先決。
離婚しなければ明日はない、絶対に離婚しようと心に誓いました。
私は実家に帰り、何だかんだと理由をつけて元夫のところに帰らず、そのまま別居期間を伸ばし続けました。
元夫の親は、これまた絵に描いたような過保護で「息子がいつでも正しい」ので話になりません。
ですが私の親から事情を話して立ち会わせ、私の父が説得し、離婚という形にたどり着くことができました。
まとめ
私の結婚期間は2年足らずです。
もうずいぶん昔のことなのにこういう記憶は薄れない一方、幸せだった記憶はあまり思い出せません。
元夫は私を支配し続けることに失敗しました。
でもこの体験のせいで、私も人生から結婚という文字を永遠に削除してしまいました。
最後までお読みいただきありがとうございました。
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