看護師の仕事は肉体的にも精神的にもハードで、辛いこともたくさんあります。
その辛いことの中には「人の死に立ち会わなければならない」ということもあります。
人の死に遭遇することなんて、普通なら一生の中でも数えるほどしかないものです。
でも看護師にとって看取りは重要な役割のひとつです。
今日は人の死というシビアなテーマですが、良かったらお付き合い下さいね。
臨床実習で学んだ・看護師が人の死に遭遇することは避けられない
もう大昔の話になりますが、私が看護学生で、臨床実習にデビューした頃のことです。
私は若い時に結婚に失敗しているので、看護学校にたどり着いたのも紆余曲折の後で、ストレートに看護師を目指した人よりも少しお姉さんでした。
それなりに苦労もして生きてきたので、ちょっとクールな、言い方を変えればフレッシュさに欠けた学生だったかもしれません。
それでも、この時のことは今でもよく覚えています。
看護学生は実習で患者さんを受け持つ
私達は、実習の間は、基本的なペアまたはグループがあらかじめ決められていて、一緒に臨床に出るシステムでした。
その時に私の相方だった学生は、裏表のない、本当に優しい人でした。
実習先ではそれぞれが自分の受け持ち患者さんを決めてもらいます。
そしてその患者さんについての看護計画を展開していきます。
相方の受け持ちは高齢の女性でした。
元気そうに見えたその女性はガン末期の患者さんでした。
受け持ち患者さんとは、その方の性格もあるし相性もあるものです。
患者さん側は、もちろん学生の受け入れをいつでも拒否できます。
そして、仮に拒否しなくても、必ずしも看護学生ウエルカムとは限りません。
上手に関わるきっかけをつかむのが難しいこともあります。
私は、ずっと口を聞いてもらえなくて、いつも不機嫌(に見える)な患者さんを担当してすごく実習が苦痛だったこともありました。
難病の方で、看護学生が入れ代わり立ち代わりするのが嫌いだったのかもしれません。
社会的にまだ現役世代で、アクティブな仕事に付いていた方なので、その辛さは私の比ではなかったことと今は理解できます。
毎日、立てた計画も拒否され、同じようなことをするだけで、これでいいのかと悩みながら顏を合わせていました。
でも、そこには何らかの人間関係が生まれるものなのです。
私達は看護学生であっても患者さんには担当の看護師である
その病棟での実習も後半を過ぎた頃、相方の受け持ち患者さんが急変されました。
朝、いつものように病棟に上がったら、その部屋からモニターの音が響いていました。
スタッフが頻繁に出入りし、いつもと様子が違って張り詰めた雰囲気が漂っていました。
その患者さんは危篤状態に陥り、ご家族も到着していました。
事態がようやく飲み込めた相方は、廊下で泣き出してしまいました。
私も他の学生も戸惑ってしまい、みんなで茫然と立ちすくんでしまいました。
そこに学生担当の病棟看護師がやって来て、相方に言ったのです。
「あなたは受け持ちなのだから泣いている場合ではない。最後まで患者さんのことをしてちゃんと看取りなさい」
これにはいろんな意見があるかもしれません。
動揺した学生は、一旦遠ざけるべきという指導者もいるかもしれません。
感情的になっている学生を寄越すのは、ご家族への配慮に欠けるとも言えます。
指導者によって違う考え方、違う対応があるでしょう。
だから、これが正しいかどうかは、ここではあえて検討しません。
「できません!私は見れない」相方は泣きながら拒否しました。
しかし、その看護師は彼女を説得します。
「死から逃げてはだめ。あなたは看護師なのよ。看護師とはそういう仕事です。」
相方はやがて納得したのか、涙を拭って自分を立て直し、その看護師について行きました。
その看護師は、はっきり言って学生には厳しくてとっつきにくく、私達にあまり笑顔を見せることのない人でした。
でも患者さんに対しては、天使のように優しい表情で本当に細やかなケアをしていました。
嫌いな人でしたが、私達に対してとは全く違うその姿を見た時に、この人は良い看護師なのだと思ったことを覚えています。
そして私はその出来事によって、改めて看護師は厳しい仕事であることを意識しました。
人の死に慣れることも必要だがそれは慣れ合いと違う
人の死が常に近くにある看護師の仕事は特殊です。
外来だけのクリニック勤務だと、まず人の死に遭遇することはないでしょうが、入院患者さんを抱えていれば、どこの部署でも条件は同じです。
救急などに至ってはもう看取りというより、搬入された人が生きているか死んでいるかという修羅場になります。
看護師は、人の死に遭遇するたびに気持ちが動揺するようでは、自分が疲労してしまって続きません。
常にフラットでなければ、冷静な判断を誤るし、ミスが起こるかもしれません。
何があってもミスは許されないのです。
見取りは看護師の業務の1つ、そう割り切って取り組む方が冷静さを失わずにいられます。
ある意味、人の死に慣れなければいけないのです。
私達は、そういう資格を持ったプロなのです。
いつまで経っても看取りに慣れない、人の死に慣れることができない、感情的な部分ではそうかもしれませんが、それではだめなのです。
人の死は人生の数だけある
人の死に同じものはありません。
同じような症例はたくさんありますが、人の死は、多くの同じような死の1つではなく、その人の死なのです。
その人だけのオリジナルであり、たった1つしかない人生のたった1つの最期の時です。
大勢の家族に見守られて穏やかに亡くなる人もいれば、誰ひとり来ることもなく、ポツンと静かに亡くなっていく人もいます。
疎遠になっている親族に状態が悪いことを連絡したら、死ぬまでは連絡はしないでくれと言われることもあります。
それでも連絡先があるだけ、まだましと言えるかもしれません。
本人がどのように生きて来られ、家族とどのように関わってきた人なのか、
私達はそれまでを何も知らないので、誰を責めることもできません。
救急では、自殺を試みた患者さんも多いです。
ある日、高齢の女性が睡眠薬を大量に服用して自殺を図り、運ばれて来ました。
発見が早く、大事に至らなかったのですが、その人は薬を飲む前に首も吊っていたようでした。
首を吊ったが紐が切れて失敗し、手首を切ったが深く切れず、薬を飲んだら助けられたその人は、末期がんで、自分でもそれを知っていました。
その人は、死が近くなるのが恐かったのでしょうか・・・。
そこの勤務では、命の矛盾みたいなものをいつも感じていました。
最期に立ち会う看護師にしかできないこと
看護師には、勤務の中で看取りが続くことも普通にあるので、次は誰だろうか、どの勤務の時だろうかとか、予測することもあります。
看取りに当たると、その日の業務は忙しくなり滞るのが現実なので、当たりたくないなというのは看護師の本音です。
自分の勤務の時かもしれないという覚悟ももちろんしています。
でも、人を看取るのは、仕事とは言え看護師も辛いのです。
患者さんの方にしてみると、それはこの世に生きてきた締めくくりの時。
人の最期に自分が立ち会うという縁は、考えてみるとすごい確率です。
それまで何の関係もなかった人と、人生の最期の時だけリンクして、見送る位置に立つのですから。
看護師という仕事に就くということは、そういう役割を持っていることを忘れないようにしなければならないと考えます。
まとめ
看護師が必ず遭遇する「人の死」について、私が考えていることを書いてみました。
これでは書き足りないのですが、なかなかまとまらないので、しっくりくる言葉が見つかったらまた書きます。
看取りは、遭遇せずに済むならできればあまり遭遇したくない、少なくとも私はそれが本音です。
だけど人の最期に立ち会う時には、その縁に心を尽くすことができる自分でありたいとは思っています。
最後までお読みいただきありがとうございました。
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