あなたは生まれ変わり、輪廻転生を信じていますか?
来世や前世はあるのか?自分が生まれてきて、現世に生きる意味は何?
私は特に信心深いわけでもなく、普段はこのようなスピリチュアルなことからは遠いです。
でも輪廻転生を信じています。
漠然と輪廻転生を信じています
私は、神社やお寺に行けば手を合わせますし、神や仏を全く信じていないというわけではありません。
でもそういうことにあまり依存する気持ちはなく、どちらかと言えばドライな方です。
私はお墓も必要ないと思っているし、引き取り手のない無縁仏になっても、どうせ本人は何もわからないんですから全然かまわないと思っています。
それは決して寂しい考え方だとか悲観的だとかいうことではありません。
命あるもの、亡くなればその肉体は「無」になると捉えています。
でも、人の価値観は様々です。
どんなお墓で、誰と一緒に入るのがいいとか悪いとか、どんな供養がいいとか悪いとか、やはりそのようなことを重要と考える人もいます。
時々そういうタイプの人から、先祖を大事にとか、投げやりにならずに信心しなさいとか諭されることもあります。
私自身は、投げやりになっているわけではなく、たまたま「家族」という縁の薄い生まれであることや、先祖代々というようなしきたりに関わる機会もなかったこと、そんな環境もひっくるめてのこのような価値観なのです。
こんな私ですが、輪廻転生はあると思っています。
魂は、前世、現世、来世を通じて永遠の存在であると思っています。
現世の私は私として今の身体で生きている。
でもそれは刹那的であり、現世は諸行無常です。
ちょっと宗教じみていますが、表現を借りただけで、もちろん宗教的な教えについては私は無知です。
魂だけは永遠に変わらない、これが私の本質と思っています。
前世の自分・私は誰なのか?
前世の自分は何をしていて、どんな人だったのか?
あなたが輪廻転生を信じているとしたら、そんなことも考えることがあるのではないかと思います。
スピリチュアルな世界では、前世を知ることもできる診断とか、前世を蘇らせるセッションとかあるようです。
つまり、催眠療法のようなもので前世の記憶を引き出す「前世療法」というものもあるようです。
あなたはそれを試してみたいと思いますか?
私は、自分の前世を知ることにそこまでの執着はないです。
そりゃ何かの拍子にそんなことがひょっこりとわかったら、それも面白いかもしれませんが。
前世が誰であっても、私は今、私でしかないのです。
私は現世で生きている、私が認識できる自分は、今ここに生きている自分の他にありません。
もしも現世というところが、よく言われる「修行の場」であるとするなら、私にも前世で到達できなかったことがあり、必要だから今があるのでしょう。
「何か」が足りない私として、ここに存在しているのです。
現世で与えられた課題・生きる意味は何?
人は、生きていれば辛いことが必ずあります。
そんな時に「何で生きているのだろう?」「生きる意味は何なのだろう?」と自分に問いかけたことはないですか?
私も、辛いことが大波小波で襲ってきて、もう自分の心がもたない、生きて行くことに自信がないと思うことは何度もありました。
↓このあたりを読んで頂ければ参考になります。
*参考記事
看護師も心を病む うつ病は他人事じゃない 私の症状はこうでした
1つ乗り越えたと思ったら、次の山が目の前にある、いつもそんな感じでした。
何で私はこんなに苦しい目に合わなくてはいけないのだろう?
私がいったい何をしたというのだろう?
物心ついた頃から、家庭的な問題にも翻弄されていた私は、自分の現実と向き合うたびに、この世に生まれたことが不幸なのだと思っていました。
だからその頃は、この世から消えたいという思いをいつも抱えていました。
私は、世の中に信じてもよいものは何もないと考えていたし、誰と過ごそうが本当の私は殻の中にいて孤独から抜けることができませんでした。
だからこそ生きづらさもあったのでしょう。
だけどそれが私であり、それ以外の私を知ることもなく、それが全てだったのです。
ある時から、そんな私の人生にも生きる意味があると考えるようになりました。
私が受けたカウンセリングがきっかけですが、カウンセラーが教えてくれるわけではありません。
カウンセリングは、殻の中で混乱している自分の心を紐解いて、整理することを教えてくれました。
それと、ある人との出逢い・・・これはまた別の記事にします。
出逢う相手とは、出逢うべくして出逢うものだと思っています。
恋人とか異性に限った話ではなく、もちろんそれも含めた出逢い全て。
たとえ嫌いな相手であっても。
袖振り合うも他生の縁という言葉、まさにそのとおりだと思っています。
そして、それは全て何らかの課題を持って自分の前に現れるのです。
生きる意味はその課題にあるのです。
越えられない課題は本当にないのか?
試練にさらされた時、人はこのような言葉を使います。
「(本人にとって)越えられない課題はない」
本当に越えられない課題はないのでしょうか?
あまりに辛いことだから、こんなふうに言わなければとても耐えられない、そこから生まれた言葉ではないのか?
生きる意味もわからなくなるような厳しい課題なんて、ありがたいとも思わないし、何もなければそれがよいに決まっています。
順風満帆で幸せな人生だったら、それに越したことはないのですから。
だけど、それはあくまでも自分基準にすぎないのです。
越えられないほど辛いと感じる課題は、人によって全く異なります。
貧乏で日々の暮らしに追い詰められる人も治らない病気で苦しむ人も、どちらも本人にしかわからない辛さにさらされているのです。
そして、人を見て羨ましいと思う。
現実から逃げたい、逃げようと思う。
逃げることができるのなら、逃げてもいいけれど、自分がパスした課題は、姿を変えてまた自分の前に表れるものと私は感じています。
クリアするまで、クリアできるまで、違う形で同じ課題と遭遇する。
それが私という魂の訓練であり、現世を生きる意味なのではないかと、私は考えています。
まとめ
このようなことを話し始めると、とりとめがなくなってしまいますが、一度、文章に残したいと思っていました。
また別の記事にして、少しずつまとめていこうと思っています。
最後までお読み頂いてありがとうございました。
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