運命の出会いと言うと、まるで絵に描いたような理想の恋人との出会いを想像してしまいがちですが、人生の中の全ての出会いが運命であり必然であると私は感じています。
出会いには、感謝するような出会いもあれば悔いしか残らない出会いもあります。
そのどちらもが自らの引き寄せであり、その人生になくてはならなかったのです。
スピリチュアルの世界ではおそらく詳しい説もあると思うのですが、私は自然にそこにたどり着きました。
私がそこにたどり着くきっかけになったのもまた、必然的な出会いがあったからです。
偶然の出会いや運命の出会い・全て必然的に引き寄せたもの
出会いには、これは絶対に運命の出会いだったと感動するような印象深いものもあれば、ただ何となく偶然というようにあまり出会いを意識していないものもあるのではないでしょうか。
そのすべてが、あなたの人生になくてはならない要素です。
人との出会いだけに限る話ではありません。
出来事であったり本であったり情報であったり、その必然は、出会うべくして私達の前に現れるのだと思います。
それぞれの決められた運命にそれが必要だからこそ、出会うのです。
そして、引き寄せているのは自分です。
引き寄せの法則というものがありますが、実は疎いので、あまり詳しいことはわかりません。
私の場合は、自分の人生を振り返った時に、このようなことなのではないかと考えるようになりました。
人は自分のエネルギーと同じ波長のものを引き寄せます。
だから、引き寄せたものを通して自分の今の状態を知ることもできるのです。
私が意識した運命の出会い
なぜ看護師を選んだのか
私は、クラブのホステスから回り道をして看護師になりました。
それまでの過程は、こちらの記事を参考にして下さい。
*参考記事
私が看護師になったのは、自立して生きて行くことが目的だったわけですが、それまでの私の人生の中で「看護師」という名称はどこにも見当たりませんでした。
私が、はるか昔の子供の頃にでも、少しでも看護師になりたいという気持ちを持ったことがあったのなら、資格職を考えた時にそれを思い出すことがあったかもしれません。
でも私の中に看護師のキーワードは全くなかったのです。
ある年末押し迫った日に、珍しく高校の時の同窓会が開催され、それまで、暮らしぶりが違い過ぎてあまり同級生との接点のなかった私が、何故かそれに参加しました。
そして、それほど親しかったわけではない同級生の一人と隣席になり、「何か資格取ろうと思ってる」というような話を何となくしてみたのです。
すると彼女が「もうすぐ看護学校の受験があるみたいよ」と教えてくれました。
彼女は、私にアドバイスしたという意識はないでしょう。
私にとってもそれは雑談の中で交わしたに過ぎない、短い会話でした。
軽い気持ちで聞いていただけの私ですが、年が明けて、ふと受験できる看護学校を調べてみました。
今は門戸が開かれていますが、当時は看護学校の年齢制限も厳しくて選択肢が少なかったです。
その中で、私が受験可能な学校があり、しかも願書の締切日が迫っていました。
私は何かに急かされるように勢いに乗って滑り込みで願書提出し、受験日まではもう1ヶ月半しかありませんでした。
それが、私の看護師へのスタートになったのです。
あの時の同窓会も同級生も願書の締め切りも何もかもが必然であり、運命と捉えています。
ネット越しのもう一人の自分
私がカウンセリングを受けていた頃、私の精神は落ちるだけ落ちていて、もう生きていける自信もなくなっていました。
必死で頑張ってきた自分はいったい何者なのかもわからなくなっていました。
下の記事は私の最初の休職ですが、この後にもう一度、私はもっと深刻な状態に陥っています。
その時のことはまた別の記事にしたいと思っています。
*参考記事
ある時、インターネットの掲示板を通じて海外在住の日本人で同世代の女性とメル友になりました。
そして、顏も知らない彼女と、PCで、お互いの内面を書き綴ったロングメールの交換が始まりました。
彼女が書く文章は私にそっくりで、どちらが書いたものか一瞬わからなくなるほどでした。
しかし、お互いが直面している現実的な悩みも環境も全く異なっています。
それでも彼女の表現は私にそっくり。
私はネットの向こうのもう一人の自分に文章を綴っているような気持ちでした。
本当はこの人は実在しないのではないか?
私は私に向かって書いているだけで、それに返事しているのも私なのではないか?
おかしいのですがそんな錯覚を起こしそうにもなりました。
何となく不安になって、彼女に「あなたは本当にいるの?」と聞いたことがあります。
すると向こうも同じことを感じていて、それで写真交換と電話番号の交換をしました。
それぞれが自由に自分の心の中を交互に綴り、それはまるで1つの作品でも書き上げる共同作業のようでした。
私達はそのようにしてもつれた心をほどいて答を見つけ、そのロングメールは何千という数になり、いつしか2年を過ぎ、自分のことを整理することに慣れてきた頃、彼女とのメールも途切れました。
電話番号も失くしてしまい、本当はずっと友達でいようと話していたのに、その後メールアドレスも変わってしまって全く繋がりがなくなってしまいました。
彼女との出会いもまた必然であり運命の人以外の何でもないと強く感じています。
全ての出会いはカルマであり意味のないものはない
今の自分にたどり着くまでにはたくさんの出会いがあり、そのどれをなくしても今の自分はないと思います。
そして、今の自分であることを後悔し、あの出会いがなければ・・・あの時こうしなければ・・・と思うことも私にはあります。
誰もがそれほど順調に生きているわけではないですし、私もその一人です。
もちろん、今の自分がとても幸せであるならばそんなことを考えることはないかもしれません。
それもまた必然の出会いを経て今があると言えるのではないでしょうか。
出会いは全て必然、自分が持っているエネルギーがそれを引き寄せてしまうのです。
そして、縁を切るとか切らないとか考えて執着しても、それは無駄であり、必要なくなった時に自然に消えるのではないかと考えています。
その出会いに自分の生きる意味があるかもしれない
例えば大嫌いな人がいて、その出会いも運命とか必然・・・と言われたら、嫌な気分ですよね。
なんでわざわざそんな人と出会うのか?
そんな運命的な出会いはいらないですよね。
私は元夫がこの世で一番嫌いで、その出会いを思うたびに情けない、恨めしい感情が湧いてきます。
大失敗だった、あんな人と出会った為に運命が狂った、と、ずっと思っていました。
でもその出会いさえも、人生になくてはならない必然であり、私のカルマだったと今は思うことにしています。
現に、それがなければその後に続く私の人生はなかったし、私は看護師ではなかった。
出会わなかったら、それがなければ、という「タラレバ」そのものがそもそもないのですけどね。
だからこそ、その必然には意味がある。
そして、自分の課題も生きる意味もきっとそこにある。
その人生だからこそ、大切な出会いもあって幸せなこともあったはず。
あなたがもし乗り越えられないことがあれば、そこから逃げるのもありでしょう。
逃げていいと思います。
逃げるのが正しかったこともあると思います。
そして、もしもそれが、あなたが乗り越える必要のある、あなたの課題だとしたら、いずれまた形を変えて同じ課題と向き合う時が来ると思います。
*参考記事
まとめ
私は、必然だったとはっきりと感じる出会いをここに書いた以外にもいくつも経験しました。
でも意識してなかったら、単なる偶然のものとしか思わなかったかもしれません。
要するに、受け止める側の感性なのだと思います。
どの出会いも運命であり、私の生きる過程になくてはならないものであり、必然なのだと考えると、一つ一つがとても大切なものに感じます。
嫌いな人は嫌いであることに変わりありませんし、好きになれません。
でも、そこにも私が何か気づくことのできるものがあるかも、と考えるようになりました。
最後までお読みいただきありがとうございました。
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